「ばかやろう……どうして戻ってきた……?」
「おまえは……もう…自由に…なってよかったんだぞ……っ」
フランス、プロヴァンス。
ここで俺は任務中のマリとリナリーに、合流することができた。
涙で震えるマリの声に、息を呑んで涙を零すリナリーの姿に、唇が勝手に笑う。
「“おかえり”じゃねーのかよ?」
これでようやく神田ユウとして戦える。
背中を押すのは、耳の奥でずっと響いている潮騒だった。
◇
「神田」
フランスのゲートからアジア支部へ直行し、ズゥ老師から六幻を受け取り、老師を見送った。六幻は結晶型に変化したが、エクソシストになると決めた自分にとってそれは大したことではなかった。
老師の死に涙する人で満ちはじめた部屋を抜け出ると、廊下でマリに後ろから呼び止められた。足を止める。
「ちょうどよかった、聞きてぇことがあったんだ」
「……なんだ」
「はどこだ。ここにいんだろ」
確信があった。理由はない。
「なんだ、分かったのか?」
「何と無くだ。いいから教えろ」
暫し考え込むように、マリが黙る。数秒後、マリは苦笑いのような中途半端な表情を浮かべてから踵を返した。
「こっちだ」
シンとした廊下をマリの後について歩く。薄暗い廊下は冷たい。彼方此方の部屋から人の話し声や笑い声、時折怒鳴り声が響いていた。すれ違う人達が俺を見て、大抵驚いた顔をしている。死人が廊下を歩いているのだから当然の反応だった。
「は、」
階段を二階分上がり、そのフロアの廊下を歩き始めたとき、マリが唐突に口を開いた。いつも穏やかなこいつがこんな風に冷たい声を出すのを聞くのは、随分珍しいと思った。
「はどうしてここ……アジア支部にいるんだと思う」
「……分かんねえよ。仕事のついでか」
「分かってるだろう、神田、お前なら」
「超能力者じゃねぇんだ。ンなことまで分かるか」
「……お前のせいだ」
「あ?」
「お前が……いや、違うか……」
言い淀んだマリが深く深くため息を吐く。ぴたりと足も止まってしまった。
消毒液の辛気くさい匂いが矢鱈と鼻を刺激する。俺たちが足を止めた廊下には、何処かしらに包帯を巻いた奴や杖でやっとこさ歩いてる奴、顔色の酷く悪い奴、沢山のカルテと思わしき書類を抱えた白衣の奴……そんな連中ばかりだった。一様に共通しているのは消毒液の匂いが染みついていること。
「任務先で怪我をしたんだ。それで、一番近かったここに」
「か」
「誰の話をしてると思ってるんだ」
「……だな」
まあしかし、本人は認めないだろうが、は頻繁に怪我をする。脱臼癖が最たるものだ。
だからそう珍しいことだとは思わなかった。次のマリの言葉を聞くまでは。
「……目を覚まさないんだ」
「いつから」
「一週間前だ」
「……ちっと長ぇな」
マリはの兄貴のようなものだった。それこそ九年前、俺が初めて会った頃からはマリの傍にいて、随分慕っているようだったし、その後教団に戻って成長したと一緒に仕事をするようになってからも、マリとの間にある信頼感は非常に強かった。側から見ていても、彼らは特別だった。
だからこそ、マリの平素より低い声も当然のことだった。
「神田がいなくなって、以前よりもは無茶をしがちになった。本人が無茶を無茶だと思ってないんだ……自分はいつも通りに仕事をこなしているつもりらしくて、いくら心配してもなおらない」
「……馬鹿だな」
「ああ、馬鹿だ。本当に……」
マリが黙ると廊下には辛気くさい匂いと、各部屋から漏れる密やかな話し声だけになる。夢で香ったあの金木犀の匂いとはまるで違う。探すように一度深く呼吸をしても、金木犀の香りはどこにもなかった。
「神田を待ってるんだ」
ふっ、と隣を淡い光がすり抜けた。
小さな子どもの後ろ姿の幻がサッと右側の部屋に消えていく。チラリとその子がこちらを振り返ったような気がした。
「最高に馬鹿だな」
鏡を見なくても分かる。多分俺は今笑ってる。
「おい、マリ。の部屋こっちだろ?」
言いつつ、靴音を響かせて部屋に向かう。
「なんで分かる?」
「なんでだろうな……ホント」
ドアの取っ手に手をかける。マリが戸惑うように一歩踏み出した。
「あいつも俺も大馬鹿だな」
ドアを開け放つ。ぶわり、部屋の中から風が吹いてきた、ような気がした。甘やかな金木犀の香りも。
狭い部屋の中央に白いベッドが一つ。そこに静かに眠る女が一人。たった三ヶ月会わなかっただけだ。なのに、もう随分長い間会えなかったような、そんな気がした。
ようやく今、会えた。
「少しだけ、席を外してもらえねぇか」
マリの片眉がピクリと動いた。暫く沈黙が流れる。
「……分かった。その代わり、何かあったらすぐ呼んでくれ」
「ああ」
音を立ててドアが閉まる。部屋の中には入口前に突っ立っている俺と、目を瞑ったまま身動ぎ一つしないだけだ。
小さいな、と思った。教団でのはいつも気丈に笑って強くて、凛と背筋を伸ばしている女だった。それが、今、こうして横たわる姿がこんなにも脆く儚く頼りなく見える。
ただ一人、という人物を真正面から見る。
馬鹿な奴だ。馬鹿で阿呆で物分りが悪い。
俺なんか帰ってくるわけがない。そう割り切ることも出来ずに、いつものように俺の不在を俺の部屋で待っていたのだろうか。
底抜けにどうしようもない奴だ。
「なあ、」
ベッド脇の椅子に腰を下ろす。右側から彼女を眺め、その傷の多さを見つける。頬にも首にもどこもかしこも大なり小なり傷ばかりだ。これだけ怪我をして、まだアクマの弾丸を食らっていないのが不思議なくらいである。
「いつまでそこにひとりでいるつもりなんだ」
部屋の中はしんとしていたが、相変わらず耳の奥には耳鳴りのように潮騒が響いていた。
そっと手を伸ばした。布団の端を少し捲ると、痩せた傷だらけの左手が出てくる。夢の中、固く固く拳を作って血を零していた手だった。
壊れ物でも扱うように慎重に両手で触れる。冷たい手だ。包むようにして、自分の熱が伝わればいいと願う。ぎゅっと力を込める、祈るように。
「」
耳の奥の潮騒が消えた。
彼女の瞳を覆っていた目蓋が、開く。世界中の音が止み、目を覚ますその瞬間は永遠にも思えた。
焦点の合わない朧げな瞳が、二三瞬きをする。その様を、こちらは一度も瞬きをせずに見守っていた。
「神田……?」
手の中のの指がひくり、と小さく震える。
寝惚けたような曖昧な声で名前を呼ばれて、俺は、返事をしなければと咄嗟に思った。夢の中で喉を嗄らして俺を呼んでいたの声が重なって聞こえた気がして。
「ああ、ここにいる」
力の抜けたぼんやりした表情だったのが、俺の返事を聞いて、じわじわと眉が下がる。眉間にシワが寄る。
「う、うそだ……」
「嘘なワケあるか」
「じゃあ夢だ……」
「夢にされて堪るかよ」
ぐしゃりと表情が目の前の表情が歪んだ。記憶の中で何度も見たの泣き顔だった。
「だっ、て……神田は……」
両手にもう一度力を込める。俺の体温が移っての指先も少しだけ温かい。
「いるだろ? ここに」
瞑ったの眦から涙が落ちる。右手をそちらに伸ばして親指で拭ってみる。冷たかったの身体の端から徐々に体温が戻っているような感じがした。生きてる。
「なんで……も、戻って……馬鹿」
「馬鹿でいい」
馬鹿でよかった。俺もこいつも。
前髪をゆるりと撫ぜる。額に巻かれた包帯が痛々しい。
箍が外れたようにぽろぽろ涙を零すの目を、ただただじっと見つめる。左手で触れたままのの手が、弱々しく俺の手を握り返した。
「お、かえりなさい」
震える涙声が俺の耳に届いたとき、身体の底の方から込み上げてきたのは紛れようもない愛おしさだった。
たぶんはずっとずっと言いたかったのだろう。俺もずっと言いたかったことがあった。
「ただいま」
それはこれまで俺が発してきたどんな声よりも柔らかい音で響いた。まるで俺の声じゃなかった。
の額に自分の額を寄せる。鼻がぶつかるくらいの近さで、の涙がぼやけて見えた。目を瞑る。涙が出そうな感覚ってこういう感じだっただろうか。
「ずっと、それが聞きたかった」
言いたいことは溢れんばかりにあった。それを零さないように丁寧に全てに伝える術を俺は知らない。だから、ただ目を瞑って、触れる額から伝わる温度を、微かに漂う金木犀の香りを、記憶に焼き付ける。それから、慎重に心の深く深くから声を出した。
「 」
「……うん、神田」
涙声で返事が返ってくる。呼んで、呼ばれて。ただそれだけの往復がどれだけ尊いか。
いつか一緒に海へ行こう。抜けるような青空の日でもいいし星が散る真夜中でもいい。一緒に、波打ち際で潮騒を聞こう。そして、そのときはどうか隣で笑っていてくれ。
(15/02/08)
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後記
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