※「ひかりのおと」の続き


 瞼を暖めていた光がふっとかき消えたのを、朧げな意識の中でぼんやりと感じ取っていた。

 午睡――というには時間が適していないが、不在の家主を待つ間、ひと眠りしようと転がったソファのうえで、思いがけず熟睡していたらしい。しかし、きちんとベッドで眠りにつくときよりも、こうしてソファなどのベッド以外の場所でうたた寝することの何と気持ちのよいことだろう。目を閉じたまま、このまま朝まで眠ってしまおうかという考えが頭をよぎる。
 もぞりと動こうとして、はたと気づいた。横になった自分の腹のあたりに、の頭があった。「……?」起き抜けのぼーっとした声で名前を呼ぶが、返事はない。どうやら眠っているらしい。
 寝息を立てている彼女は、床に膝をついてソファに突っ伏すようにしている。寝ている俺の胸に頭をくっつけるようにしているのが、何となく擽ったい。まだ眠りを引きずったままの脳みそで、その擽ったさを胸のうちに転がしてみる。

 このソファは、彼女が先週買ってきたものだ。
 の部屋は、決して物が少ないわけではない。ただ、“必要のあるもの”が少ないように感じていた。いつでも捨てられるもの、なくなっても惜しくないものばかりだ。唯一、写真の入ったアルバムとノートパソコンだけ大事そうにしているのを知っている。
 ソファは、独り暮らしの部屋には少しだけ贅沢品のように思える。横になりたいならベッドに転がればよいし、座りたいなら食事をとるためのテーブルと椅子がある。そういうふうには考えているのだろう。彼女の人となりを知るにつれ、次第に分かろうとしなくとも何となく分かるようになってきた。
 知り合ったばかりの頃は、そんなことちっとも気にならなかった。そういう人もいるだろう、と。知り合いの女の中では、以上に物を持たない人も、もはや家すら持っていない人だっている。気にするほどの性質ではない。
 そのが、気に入ったからと少し値が張るソファを買ってきた。
 こんなこと柄にもないが、それがなんというか、ちょっと嬉しかったのだ。

 ソファに片腕をついて、上半身をのそりと起こす。部屋は薄暗かった。窓のカーテンが開いているおかげで、真っ暗というほどではないが、部屋の電球はどうやら点けられていない。そういえば、自分が眠る前も窓の外にやたらと明るい謎の光源があって、それで部屋の明かりは点けなかったのだった。
 目を細めて時計を見れば、日付が変わってから小一時間経とうとしているところだった。
 眠っている彼女の身体をまたぐようにしてソファから立ち上がると、天井に向けて両手をあげて身体を伸ばす。しばらく小さくなって寝ていたものだから、ミシリと身体が鳴った。
 大きなあくびをひとつ空中に放る。部屋に来たときから脱いでなかったジャケットをその辺の床に落として、ついでに寝苦しかったベルトも引っこ抜いて同じ場所に投げる。
 玄関の方向に目をやって、その場でじっと部屋にかすかに響く時計の針の音を聞いた。カチ・カチ・カチ。たぶん三十秒くらい。
 結局一歩も動かずに、その場にしゃがみこむ。丁度、ソファに左の頬を寄せて眠る彼女の顔を覗ける恰好になった。ひとさし指で彼女の鼻の頭を触ってみる。目を覚ます気配はない。鼻を指先でたどって、横臥しているから普段よりとんがっている上唇をつつく。さすがに嫌がるように眉間にしわが寄り、美人からはほど遠い寝顔になってちょっと笑ってしまう。

 愛とは何であろうか。しばしば問われるものである。
――あたしのこと愛してないの?
――あなたのこと愛してるのよ。
――ザップさんって、結局誰のことが好きなんです?
 愛に関して、これまで言われたすべてが「唯一無二」という意味の「愛」を指していることはさすがの俺にも分かる。馬鹿ではないので。
――こんなことするのは私だけだよね?
 答えは「No」だ。誰とでもヤれるわけじゃないが、誰かとしかヤれないわけじゃない。
――私のこと、好きだよね?
 答えは「Yes」だ。可愛くてやわらかくてふわふわした女の子はみんな大好きだ。語弊がある。いわゆる可愛いタイプ以外も好きだ。すらっと足が長くて涼し気な顔立ちに赤いリップが似合うような強気な女も良い。今まで寝たことのある子はみんな好きだ。

 俺のこれは愛じゃないんだろうか。愛だね、と肯定するやつもいれば、そんなの愛じゃない、と否定するやつもいるだろう。
 唯一無二が良いという気持ちも分からないわけではない。俺だって、どうしても落としたい子がいれば、その間ほかの女の子とは遊ばないこともある。人間生きてればそりゃ一途になることだってある。一応。
 逆に、唯一無二に全く興味がない女もいる。その気持ちも強く分かる。遊びたいときに遊びたいやつと遊べば良い、と割り切っている女の子もそれはそれで良い。
 ただ、はそのどちらでもないような気がする。中途半端なのだ。どちらかと言えば、後者であるような気もするが、かといって、他のいわゆる誰とでも遊べる「割り切っている女」とは種類が違うだろう。
 他人のことなんて、結局のところ分からないが。

 考えていると何もかもが面倒くさくなる。頬を先ほどよりも強めに指先でぐいと押す。頬の肉の下に並ぶ歯の硬い感触が指先に伝わる。
 眉間のしわが深くなって、彼女は数度まばたきをしてからぼんやりと目を開いた。
「ザップ」
 輪郭の擦れた声が名前を一度口にしたが、そのあとは何か意味のある言葉が発されるわけでもなく、ソファになついたまま、瞼をずいぶん重そうにして口を小さく開けたり閉じたりしている。
「ンなとこで寝てっと、明日また肩が痛ぇとか腰が痛ぇとか言うことになんだろ」
 いつだったか、自分もに言われたことがあるようなことを言う。
 うーん、と呻いた彼女が身じろいで両腕をこちらに伸ばしてくる。完全に寝ぼけたゆっくりさで、その両腕は俺の首の後ろに回された。お、と思う間もなく引き寄せられて、肘がソファにつく。肩口に頭を寄せられて、彼女の顔は見えなくなったが、耳元でまた深くなった寝息が聞こえ始めた。
 カチ・カチ・カチ。秒針の音。二十回分は聞いただろうか。
 彼女が起きてしまわないように、何とか身体をひねって腰を痛めぬように立ち上がる。両の腕に彼女を抱きかかえたまま、部屋が狭いおかげですぐ近くにあるベッドまで歩いた。をベッドに下ろして、そのまま自分もベッドに転がる。の部屋は玄関口で靴を脱ぐ仕様になっているので、ベッドに転がる前に靴を脱ぐ手間が無くて助かった。
 夜の深い暗さに慣れた目が、彼女の穏やかな寝息に合わせてわずかに動く身体の稜線を見る。背中を抱けば、見ずともその呼吸が腕から伝わる。抱き寄せれば、自分の胸元でたしかな彼女の寝息を感じる。
 すっかり夢の世界に浸りきっている彼女は、抱き込まれてもなにも言わない。なんの返事も来ない彼女の頭に頬を寄せていると、何か言いたいことがあるような気もする。
 愛とは何であろうか。
 呼んだって返事がないとわかっているのに、腕の中にいる彼女の名前を息だけで呼ぶ。声は、音もなく二人きりの部屋に溶けて消えた。


(24/01/31)
title :alkalism