耳が痛くなるほどの静寂に、反射的に瞑っていた目を開ける。濛々とたちこめる煙が邪魔をしてよく見えない。ひりひりと、強烈な痛みが喉にある。首に触れてみたら手がべったりと血で濡れた。
膝をついて崩れ落ちていた体勢を整えようと腕で身体を起こす。役立たずな右腕、特に肩も強烈に痛いが、そのあちこちからの痛みが刺激になって意識を繋ぐことができているような気がする。
神田。
呼んだつもりの声は言葉にならなかった。
「神田ッ」
アレンのよく通る声が静寂を切り裂いてここまで届いてきた。晴れてきた粉塵の向こう、爆発で大きく窪んだその場所で、何かに走り寄る人影が見える。アレンだ。無事だったらしい。
神田? 彼は今神田と叫んだのか?
「、無事か!?」
後ろからフォーの声。ティキの気配が遠いと思ったら、どうやら私は無我夢中で彼から逃れたらしい。数メートルと離れていないティキとフォーの方を振り返ると、彼は苦々しい顔で左肩を抑えていた。肩の服が僅かに裂けて、そこから裂傷が見える。傍らの潮騒に血が付いているから、逃げる時に私は彼の肩を傷つけたようだった。憶測でしか話せないのは、そのときの記憶がまるで無いからだ。
「神田……?」
潮騒を杖がわりに、必死に立とうと力を入れる。立てない。なんでこんなに力が抜けているんだろう。身体が今までにないくらい重かった。潮騒を握って、目を瞑る。潮騒の盾の力がまだ何とか発動していることにホッとして、目を開けた。身体のだるさは離れた場所で盾を張っているせいでもあるけれど、きちんとそれで皆を守れているのならそれでいい。
耳鳴りが酷かった。心臓の音も煩くて、周りの音がよく聞こえない。
「」
神田に、覆いかぶさるようにして拳を震わせていたアレンが、僅かに近寄ってきた私に気が付いた。上げた顔が涙で濡れている。
ああ、神田だ。神田がいる。
ほんの十数メートル先に、あれほど焦がれた人が横たわっていた。静かに。
「アレン……アルマ、アルマは……」
声が震えている。神田の、名前が呼べない。
「アルマ、は……」
神田の傍らにセカンドの標の入った球体があった。アルマのものだ。いや、アルマだ。伸ばされたアレンの手は震えていた。突っ伏したアレンの肩も震えている。
「どうして……神田はどうなる……っ」
アルマへの問いかけだろうか。
「なにも知らず九年間生きてきた神田は、神田の気持ちはどうなるんだよッ!」
九年。心当たりがある。というよりも、ノアの能力によって無理に見せられた神田の過去が蘇る。そうだ。私が神田に出逢った年。神田が生まれ、アルマと出逢い、別れた年。
「いえないよ……」
小さな声が。本当に小さな声が耳に届いた。それはアルマからだった。
「ぼくが《あの人》だってわかったら……ユウはもう探してくれない……」
アレンの目の前、神田の傍らでアルマの身体が煙とともにじわじわと再生していく。
―― “ぼくが《あの人》だってわかったら”?
「あの日の約束……ユウが《あの人》との約束に縛られてる限り……彼はずっと《あの人》のものなの……」
あの人。あの人って。
「ずーっとね……」
微笑んだアルマの顔を、私は見ていられなかった。俯くと、地面の上で拳を作った両手が震えているのが見える。涙は出ない。眼球はカラカラに乾いているような感覚さえした。ひりつく喉の傷の痛みだけが鮮明で、それが私の意識を繋いでいる。
神田が誰か知らぬ人のことを、《あの人》と呼んでいたのは知っている。《あの人》が神田を、神田の心を縛っていることも。《あの人》をずっとずっと探し続けていることも。
―― ずーっとね
アルマの優しげで満足げな声が胸を締め付けるようだった。
「ユウの体、どこ……?どこにあるの……?」
アルマの体はまだ半分も再生されていなかったが、それでも必死に這って神田を探していた。
「ユウのそばにいきたい……どこ……?ユウ……?ユ……」
アルマの視線の先、横たわり眼を瞑っている神田が。
「どうしても……この人だけは失いたくなかった……っ!」
その言葉に、私は打ちのめされたような心持ちになった。それは、私の台詞だった。
アレンがそっとアルマの体を持ち上げ、神田のそばまで運んで行ってあげる、その全ての動作、シーンが私にはひどく遠くの出来事のように感じられた。
自分の心臓の音が耳に響く。傷が痛む。体力がもう底を突いているのが分かる。
「優しいね……」
ぽつんと呟いたアルマの声が辛うじて耳に届いたその瞬間。
「ダークマター!?」
アルマの体からゴボリ、と残っていたダークマターが溢れアルマを飲み込んでいく。ほんのわずかに残ったアルマの魂のすべてを食い尽くそうとしているのだ。彼の体はダークマターによってどんどん肥大し、高く高く伸びて行った。アルマの身体が遠くなる。弾かれたアレンが、苦しげな顔に様変わりする。
「モヤシ……」
声が。声が。酷く煩い心臓の音と耳鳴りの音を鋭く切り裂くような、そんな鋭さで以って耳に届いた。
いつの間にか蹲ってしまっていた体勢から、気力だけで顔をあげる。パタリと、顎から伝って落ちた血が手の甲を汚した。
呼ばれた名前に振り返ったアレンが、その人の名前を呼ぶ。
「神田……」
「俺を、連れて行け」
「何、言ってんの……?」
自分の口から零れた声はまるで知らない人のように乾いた響きを持っていた。肘を付いて半身を起こしている神田が驚いたようにこちらを見る。目が合った。それだけで、胸が苦しくなって目眩がする。
「連れてってもらって……それで、神田は、神田は……」
―― いなくなるんでしょう?
言いたかった言葉は喉の痛みで音にできなかった。
「」
呼ばれた声に返事ができない。そのあまりに優しげな声色を聞いてしまった途端、渇いていたはずの目に涙が溢れた。溢れて溢れて、しっかり目に焼き付けたいはずの神田の姿が滲んでしまう。
「ごめんな」
波の音がする。ざわざわと。耳の奥で。
そんな顔、見たくなかった。
そんな言葉、聞きたくなかった。
そんなの聞いてしまったら、そんな表情見てしまったらもう私にはどうにもできない。神田を引き留められない。
「……神田の、好きなようにしたらいい。神田が、囚われたままなのは、私だっていやだ」
いやだ。いやだ。いやだよ。どこにも行かないで。私をひとりにしないで。お願い。
「ああ。ありがとう」
行かないで。
アレンに抱えられ、イノセンスの力でアルマよりもさらに上空へ神田が遠ざかっていく。アルマよりもずっと上空でアレンと別れ、神田は一直線にアルマのもとへ落ちる。ダークマターに飲み込まれ行き場をなくしたアルマを、神田が抱きしめる。アレンが開いてくれたゲートに二人で飛び込む。その一瞬一瞬を、コマ送りのように焼き付けながら見ていた。
言えなかった想いが、心から止め処なく溢れて溢れて頬を濡らしていく。
アルマと二人、ゲートの向こうへ消えていく神田は、今まで見たどんな姿よりも美しかった。
呼吸を止める
(14/08/20)
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