――ごめんな。
それが何を意味していたのか、分かりたくもなければ、もう考えることすらできなかった。
「! よかった、意識が……」
隣から覗き込んでくるのはリーバーの憔悴しきった顔。少し気を失っている間に、誰かに――おそらくアレンだ――科学班の仲間たちのところへ連れてこられたらしかった。周囲を見回して状況を整理しようと努める。フォーがいない。精霊石がもたなかったのか。
「アレン・ウォーカー!」
気に食わない人間の大きな声が響き渡る。空気を震わせて耳に届いたその声にははっきりと苛立ちと怒りが含まれていた。
「重大な背信行為だ。自分が何をしたかわかってるかね!?」
「アルマ=カルマを神田ユウと共に逃がすとは…っ」
「アルマを破壊せねば第三使徒の暴走は止められんというのに」
「キミはみすみす救える命を……第三使徒計画を潰すつもりかね!」
ルベリエのがなり声はアレンに聞こえているだろうか。聞こえていないといいのに。
暴走するアルマの怒りが、アルマの細胞が肥大化しているそこにアレンが飛びつく。 遥か高みから、伯爵の声が響く。
《愚かナ…… アルマ=カルマはとっくに死んでマスヨ》
《あれはもはや怨念だけで彷徨っているノデス》
《アルマ=カルマの悲しみはそれ程までに深かったということデショウ》
アルマの怨念。深い深いそれは私たちの想像だけでは到底追いつけないだろう。
目を閉じる。戦闘が遠のく。神田が消えるその背中が目蓋の裏に浮かぶ。その背中に幼い神田とアルマの姿が重なる。
《イノセンスめ… 憎い! 憎い!》
アルマ細胞の声。アルマの心の声と同じだろう、きっと。
そして、きっと、神田も思っていたことだろう。
「トクサ、目を……っ、目を覚ませ!」
暴走するアルマ細胞に喰われてしまっているトクサに、アレンが必死で呼びかける。 イノセンスでアルマ細胞を刺し、トクサを懸命に呼びつづける。
「キミはアルマじゃない! これはただのアルマ細胞だ。キミの体なんだよ。きっと制御できる。キミは僕なんかよりずっと優れた戦士じゃないか……しっかりしろ!」
「わたしを……破壊しない……のか……?」
朧げだが、たしかにトクサの声が聞こえた。弱弱しく、アレンを問うその声にいつもの不遜な調子が見えない。
「なぜ……?」
「キミこそなぜ諦めるんです」
アレンの言葉にトクサの顔つきが変わったのが遠くから見て取れた。
「そのまま……イノセンスでアルマ細胞を弱めろ……っ
アルマの怨念を抑えこむ……っ」
「はい!」
「発動を解きたまえ、アレン・ウォーカー!」
凛とした声が突然投げられた。
「リンク!?」
どこから現れたのか。テワクらしき人物を左わきに抱えたリンクが縛羽を使う。彼が鴉であったことを証明する業の一つだ。
リンクの力によって現れた無数の札がアレンを拘束する。がちがちに縛られ、両腕の自由を奪われたアレンは、アルマ細胞の少しの動きでいとも容易く転げ落ちた。
「はなせ……ッ、今なら助かるかもしれないんだ、リンク!」
「きくな!」
アレンの懇願を遮って、また耳障りな声が響く。傲慢で、私が心の底から憎い人物の声。
「ウォーカーは暴走している。締め上げてゲートを開かせなさい!」
リンクが一瞬躊躇した、その時。
「さぁ! リンク監査官ッ」
「兄様」
テワクの声だった。か細い、弱り切ったような声。
「兄様はどこ……? 殺したんですの……?」
彼女の中のアルマ細胞が暴走していく。怨念。そう言った伯爵の言葉が脳裏を過った。
「兄様はッ、アレン・ウォーカー!」
「テワク! 止まれ!」
どこから飛んできたのか。瓦礫の中から突然ティムキャンピィが暴走するテワクに体当たりでその進行を阻んだ。吹き飛ばされたテワクの身体はゴロゴロと勢いを付けて数メートル転がる。
「ティムキャンピィー!?」
「デカイ!」
突然舞台に表れたティムキャンピィはアレンを守るようにしてテワクに歯を向いている。その様子とあまりの大きさに周囲は皆、呆気にとられていた。
「そんなことは後で……」
言いかけた、リンクの背後。瓦礫を踏む音が。
「リンク!」
「ダメだ! よせーッ」
暴走するアルマ細胞のせいなのか、それともトクサの意思なのか。リンクに襲いかかる猛スピードの彼の姿を誰も止めることはできない。躱すこともできない。トクサの腕がリンクを捉えようと伸ばされる。その瞬間。
ぱちん。
「消え、た?」
音がしたわけではない。掻き消えた。唐突に。
リンクにその手が届くか届かないか、その直前でトクサの姿は消えてしまったのだ。
「トクサ……?」
しんとした静寂に、テワクの弱々しい声がぽつんと響く。
「兄様、トクサ、キレドリ、ゴウシ……
みんな、テワクを、ひとりにしないで……」
ひとりにしないで。置いて行かないで。
彼女の足元に大きな渦ができている。あれには見覚えがあった。
江戸から神田やアレンを連れ去った、伯爵の方舟だ。
「そこから離れろぉ!」
「、テワク!」
アレンの叫び声、リンクの伸ばした手も空しく、彼女もまた、消えてしまった。方舟の向こうに。
《貴方方が計った「第三使徒計画」実によく理解できマス》
《生存を求める故のごく自然な行動ダ》
《しかしながら我々には理があるノデス》
《我々は自らが掲げた「神」で殺し合わねばナラナイ》
《その筋道からハズれる事は断じて許しマセン》
《力を欲するなら「ハート」を探すコトデスヨ》
伯爵の長ったらしい説明を、目蓋を閉じながら耳にする。
――ひとりにしないで。
テワクの声が、自分の幼い頃の声と重なって聴こえたような気がした。
《第三使徒はこちらの駒にさせて頂きマスヨ》
《ルールに従ッテネ》
――ひとりに、しないで。
◇
「」
名前を呼ばれた。柔らかい声。
「婦長が怒ってたぞ。診療すっぽかしただろ」
頭を動かして部屋の入り口を振り返る。マリが戸口に立っていた。マリに見つかってしまうとは、驚きだ。
「よく、見つかったね」
「どうせここだろうと思って」
私の声を頼りに、なのだろうか。マリが近寄ってくる。部屋の主人のいないベッドに俯せる私に手を伸ばす。そっと髪を撫でられた。
月光が大きな窓から差し込んでいた。空っぽの部屋を冷たく満たす光に目を細める。そっと深く息を吸い込むと埃っぽい匂いが胸を一杯にした。
「聞いた話だとしばらくはこの部屋も空けたままにしておくらしい。室長の、希望だと」
「そう」
ベッドの端にマリが座ったのでその重みの分だけ少し沈む。
神田の部屋はいつも寒々しかったが、部屋の主が帰ってこなくなってからますます冷たくなってしまった。
目を閉じる。目蓋の裏に浮かぶのは、もう会えなくなってしまった沢山の人たちの顔。
もしも、私があのとき本心のまま神田を引き留める言葉をかけていたら。
もしも、私があのときアレンを追って北米支部へ飛ばなければ。
もしも、私があのとき鴉の人間に連れて行かれる幼い神田を引き留めていれば。
もしも、私があのとき神田ユウに出逢わなければ。
「神田は教団に戻ってこない方がいい。彼自身のために」
「うん」
それを肯定した瞬間、身体中が震えた。
仰向けに転がって、手の甲で目元を隠した。意味はないと分かっていても、そうやって顔を隠さなければ話せそうになかった。
目蓋の裏に、神田の、消え去っていく姿が。
「それでも、」
声も震える。唇も戦慄く。心臓が震える。音はきちんと言葉になっているだろうか。
窓の向こう、遠く遠くに小さな月が見える。目を瞑れば海が見える。
好きだ、と思った。どうしようもなく、好きだ。
きっと、ずっとずっと前から。
誰よりも、何よりも、どんなものとも比べられない。
「私は、神田に会いたい」
目が覚めても春は来ない
(14/09/04)
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