呼ばれた名前に顔を上げる。リナリーが自分の食事を持って、微笑みかけていた。時刻は午後二時前。遅い昼食をとる人で一杯の食堂の中で、華やかに微笑む彼女は数人の男性団員にちらちらと盗み見されていた。殺伐とした食堂に咲く一輪の花である。

「ここ、空いてるかしら?」
「どーぞ、お姫様」

 恭しく返事をすると彼女は「ありがとう」と可笑しそうに笑って向かいの席に腰かけた。随分と久しぶりに彼女の顔を見たような気がする。

「リナリーずっと任務に行ってたんだっけ?」
「そうでもないんだけど……とはずっとすれ違いだったわね」
「一か月ぶりくらい?」
「そうね。元気にしてた?」
「うん。怪我も無く」
「ほんとかしら?」

 意地悪く笑うリナリーに、一瞬返す言葉が詰まる。その隙を彼女が見逃すはずもなく、くすくすと声を立てて笑われてしまった。

「小さい怪我は怪我のうちに入らないよ」
の小さいは小さくないのよ」

 困っちゃうんだから。付け加えられた言葉に、リナリーはお姉さんみたいだなと思う。一応、私の方がいくらか年上のはずなのだが。
 リナリーが丁寧に箸を使う様を眺めていた。ずっと以前にもそうやって箸を綺麗に使う男の指先を見ていたことを思い出す。本当にずっとずっと昔昔のことのようだ。長い指が器用に二本の棒きれを扱う様を、私は、私は。

――駄目だ。

 忘れよう、忘れようとここ三ヵ月ずっとずっと考えていた。考えてはいけない。目で探してはいけない。
 それなのに、考えとは裏腹な行動を取ってしまう。食堂ではどこかで長身の黒髪を探しているし、あの人の部屋にだって気が付いたら足が向かっている。

 たった三ヵ月。それだけで、私の周囲には大きな変化が複数起きた。
 まず、神田。それから、アレンの失踪。ラビとブックマンも不在のまま。
 複数人の、それも主力となるエクソシストを失ったことで私たちにかかる任務の数は急激に増えた。教団の焦りもあるだろう。
 忙しければ忙しいほど考える暇はなくなると思っていた。実際、任務についているときはあまり考えない。けれど、反動のように、ふとした隙間で思考に入り込む。
 おかげさまで最近、細かい怪我が増えた。この間は階段を踏み外したし。凡ミスで敵の攻撃を軽く食らったりもする。コムイの采配のおかげなのか、最近マリが一緒に行くことが多いから、カバーが丁寧で助かっているけれど、このままだと危ない。いつ大怪我に繋がるか分からない。



 呼びかけられた声が、あの男の声と重なって聴こえたような気がした。末期だ。

「どうしたの? 食べないの?」
「……食べるよ。お腹すいてるからね」

 精一杯笑顔を作る。リナリーが少し困ったように眉を下げて笑った。







 漣が耳を打つ。静かな夜だった。空には星はひとつもなく、そのかわりに大きな満月が浮かんでいる。
夢だと分かった。少し前まではよく見ていた夢だ。
 耳の奥に波の音がへばりつく。

――ひとりにしないで。

 か細い声。誰のだ?
 十数メートル先、砂浜にひとり膝を抱えて座っている。誰だろうか。月の明かりで逆光になっていて、真っ黒なシルエットしか分からない。
 妙に気になって近寄ってみる。その人がほんの僅かにこちらに顔を傾ける。月の光の当たる加減が変わる。色素の薄い髪、よく見知った顔つき。

 私だった。

 それを認めた途端、私はその場から動けなくなった。
 視線の先のは静かに海を見つめているだけで、私のことはまるで見えていないようだった。
 海風で髪がひらひらと靡く。周りには何の照明もなかったが月の明かりだけで十分周りが見えるほど明るかった。
 夢の中の「私」が突然立ち上がる。海を真っ直ぐ見つめたまま。表情は少し明るくなったような。

――神田。

 声は聴こえなかった。けれど「私」は確かにその名前を呼んでいた。横顔の唇がその三文字を紡ぐのが離れた場所からでも分かった。私はあんな風に、縋るように呼んでいたのか。
 海の向こうから船がゆっくり近づいてくる。穏やかな海に波を立てながら。風は僅かに強くなっていた。徐々に徐々に近づくその船を凝視する「私」の目が見開かれていく。

――神田、神田。

 瞠られた目に涙が浮かんでいる。どう見ても船に向かって神田の名前を叫んでいる。
 「私」の視線の先を追って船を見る。甲板には一見して誰一人いないようだったが、よくよく見ると帆の近く、ひとりだけぽつんと立っていた。神田?
 「私」が堪えきれなくなったように足を踏み出した。最初はゆっくり、恐る恐る。足が海に近づくにつれ、だんだんと駆け出すような踏み出し方になっていく。ぱしゃんと飛沫があがる音。ばしゃばしゃと音を立てて海に入って行っているのだが、そんな些細なことは少しも気にならないらしい。
 神田……? 甲板の上を眼を凝らして見る。棚引く黒髪は神田のようだったが、微妙に違和感が。





 砂浜の方から声がした。「私」はそれに気づいていない。
 砂浜を振り返った。いつの間にか潮が満ちていて、砂浜が遠くになっている。



 甲板に人影が見えることよりも、砂浜に立っている人物が、私の心を揺らす。黒い髪が海風に棚引いたのが見えた。
 理屈では説明できない。ただ、本能が私に告げている。
 砂浜にいるのが、神田だ。



 呼ばれる名前に涙が溢れる。ここ三ヵ月の間でどれほどこの声の幻聴を聞いただろうか。それでも「私」は気づかない。とうとう私は「私」に背を向けて足を一歩踏み出した。波をざばざばと掻き分けて一歩一歩進む。砂浜が遠い。神田、と名前を呼びたかった。開いた口からは何の音も零れなかった。


「ユウ」


 柔らかい声だった。呼ばれた神田が振り返る。彼の影になってこちらからはうまく見えないが、神田の後ろに誰かがいた。月光が強く強く二人を照らす。足は急に重たくなった。もうきっと一歩も前に歩けない。海に浸かる足も指先も心の奥底もしんと冷え切ってしまった。心臓を内側から鷲掴みにされているようだ。漣も聴こえない。何も聴こえない。たったひとりきり月光に照らされた海に佇んでいる。

 こんなに苦しいのはもう、嫌だ。



僕はきみといたい



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