は、覚えているだろうか。
俺は覚えている。を初めて見たときのことを。
俺はあの時どん底で、大きな大きな嵐の最中にいた。
《ユウ》が生まれたあのアジア支部の薄暗い研究所。鴉の連中に追われ、冷たい用水路の中にアルマによって突き落とされ、流れに流され、やっとの思いで水から這い上がった時、目の前にいたのだ、が。
マリの大きな影に隠れて、小さくこちらをおびえたような不安そうな目で見ていたことが記憶の片隅に今もなお残っている。
暫く経ってエクソシストとして教団に所属するようになって、と再会した。奴は俺のことなど忘れたようにからから笑っていた。同じく再会することとなったマリとは兄妹のように仲が良かった。
こうして教団にきちんと入団してから、たまに、夢を見る。
あの、蓮の夢ではない。金木犀の香りがする夢だ。
そうだ、金木犀だ。
が気まぐれに俺の部屋を訪れる時、図々しく食堂で隣に腰かけて来る時、稀に彼女から香ってくる微かな花の香り。
そこまで思い至って、漸く俺は目蓋をあげる。視界に飛び込むのは、輝く大きな大きな満月の光。場所は、誰も居ない静まり返った教団だったり、俺の部屋だったり、しんとした海辺だったりする。
金木犀の香りと、俺がいる場所とを認識して漸くこの夢が《あの人》の出て来る夢ではなく、正真正銘、俺が見ている夢だと確信するのだ。
俺は月を見上げる。室内にいる時は窓の外の月を、海辺に居る時は頭上にぽかんと浮かんでいる月を。風が俺の髪を揺らす。いくら見上げていても頸が痛くなることはない。そうして延々と見上げ続けていると、どこからか微かな声がする。それはあまりにも微かでささやかで、風の音ではないかと初めは疑うのだが、聴いてるうちに段々と人の声らしくなってくる。
――神田!
そして突然、はっきりと、しじまを切り裂く声が響き渡るのだ。俺はハッとして声のする方を振り返る。自分を呼ぶ声が聴こえた瞬間、突風が吹く。金木犀の香りが強くなる。
振り向いた先、波打ち際や、俺の部屋のドアの前や、廊下の向こうにたった一人の人影が見える。そいつは俺の方なんか見ちゃいない。顔はこちらを向いてるのに視線は彷徨っている。何かを探しているかのように。
「」
唇を開いたら存外低くて柔らかな声が零れる。いつもだ。現実でも、を呼ぶ時に俺の声はまるで俺のものじゃないかのような響きを持つことがある。それが、この夢の中では常だった。
けれど、彼女は気付かない。張りつめた表情でいつもいつも俺の名前を呼びながら、決して俺には気付かない。俺はきちんと答えているというのに。
今日の夢は海辺だった。
潮騒と彼女の声が混ざる。張りつめた顔で、海辺に響き渡るその声は徐々に徐々に必死さを増してゆく。
俺はその夢の中で一歩たりとも足を動かしたことがなかった。いつも足は地に縫いとめられたかのようにピクリともせず、それが何故なのか疑問に思ったこともなかった。けれど、今日、この夢の中で、俺はその事実に初めて気付いた。足を動かそうとしてみる。足の裏に砂浜の柔らかい地面の感じを覚えた。親指に力を込めると僅かに沈む。動く。きちんと動く。
との距離はどれくらいあるのだろう。きちんと表情が見えるくらいなのに、近づこうと思うと随分遠い。不思議な距離だった。きっと細かくてサラサラしているのだろう、足元の砂は俺が歩み始めても足音が立たない。
――神田、神田、かんだ、カンダ、神田。
そんなに呼ばなくったって聴こえてる。聴こえてるんだ。
彼女が、力を入れすぎて色が白くなっている両こぶしから、パタリと血が零れていた。爪が手のひらを傷つけているのにも気づいてない。寄せる波にさらされている彼女の素足はきっと冷たく凍えているだろう。けれどもきっと、自分が素足であることにもその冷たさにも彼女はきっと気づいていないだろう。
喉が嗄れるほど叫んでいるのにその声をちっとも緩めない。
俺の方を向いたり、海の向こうを向いてみたり。誰かを、きっと俺を、探しているのだ。自分の事など顧みずに。
砂浜を踏みしめ踏みしめ彼女に近づく。名前を呼んで、その手に触れて、きつくきつく握りしめられたその両手を解いてやりたかった。
「」
パチンとひとつ瞬きをしたら、そこに、今までいなかった人影がひとり現れた。
月の光が作るの影にすっぽり収まっているかのような、小さな小さな人影。色素の薄い髪。小さな小さな白い手が、の右手の肘あたりの袖をぎゅっと掴んでいる。気づいて気づいて、とでも言うかのように、クイクイと引っ張りながら。
その人影は小さな幼い頃のだった。初めて出逢ったときの。
彼女は俺の名を呼ぶ大人のを見上げ、近づく俺の方を見て、またを見上げる。
小さな口が懸命に開閉していたが、言葉は聴こえなかった。
「」
俺が名前を呼ぶと、小さなの方はピタリと動くのをやめた。月の光のせいだろうか。金色に光る瞳が二つ、俺の顔を真っ直ぐにじいっと見つめる。ぱちぱちと瞬く。
小さなに見つめられながら、足を二歩三歩と進めた。金木犀の香りが、いよいよ鮮明になる。
手を伸ばせばきっと触れられる。はもう海の向こうに視線を定めていた。真っ直ぐ真っ直ぐ遠くを見るの横顔には、哀しさだとか苦しさだとかが浮かんでいた。
なあ、。お前、足冷たいだろう。手のひら、痛ェと思わないのか。俺の名前ばっかり叫ぶの、きつくないか。そういうの全部、気にしてないんだろう。
――神田、神田、
ここにいる。ここにいるんだ。
手を伸ばした。彼女の痛ましい手の方へ。じっと俺を見つめていた小さなが、ふっとその唇を綻ばせた。柔らかな笑みが一瞬で幼い顔へ広がる。
「ありがとう、きてくれて」
に触れる直前、小さな方のがそう言ったのを確かに聴いた。
◇
目を覚ましたら、俺は汽車に揺られていた。
アレンに方舟でアルマと共に送ってもらったマテールの地から、離れて行く汽車の中だった。窓の外には見知らぬ街の風景が流れている。
アルマと別れて、漸く俺はこれまで見てきた夢の中で一歩も動かなかったわけを悟った。
ゆっくりひとつ瞬きをする。目蓋の裏、最後に見たの顔が浮かんだ。
――「神田の、好きなようにしたらいい。」
、お前、あのとき泣いてたんだ、ちゃんと自分で気づいていたか。
海の終わりを知っているか
(14/12/05)
Next→